9月18日、こちらのブログもいつの間にか7周年を迎えました。
自分の推しの子への愛と作品への賛美を語らずにはいられず、それらを綴る場所として始めたブログ。
日常の出来事もちょこちょこと書かせて頂きながら、楽しく続けているうちに、気づいたら7年経っていた感覚です。
時に愚痴だったり暗い気持ちなんかも綴ってしまっておりますが、私としては書く事で自分の気持ちの整理に繋がっております。
そんなブログ、覗いてくださっている方々に感謝いっぱいですし。
コメントを寄せてくださる方々とはお友達になれたような親しみを勝手に抱かせて頂いてます。
本当に、いつもありがとうございます。
さて、7周年という事で、今回はずっと心にひっかかっていたお話を書かせて頂きました。
私もよく使っている“腐女子”という言葉、それに付随して考えている事についてです。
少し長い文章になってしまいました。
私が腐女子という言葉を初めて聞いたのは今よりずっと若い頃、大学生の時でした。
大学生の頃、私は3つのサークルを掛け持ちしていたのですが、その中の1つにオタク仲間が集うサークルもありました。
飲み会の席にやってきたOBの先輩が「飲んでるかフジョシども~」と声をかけてきた、それがこの単語との出会いです。
「飲んでるか」の言葉に「はーい!」と返事をした私ですが、頭の中では “フジョシ=婦女子”と変換されていたので、格別な反応をするでもなく、普通に聞き流しておりました。
ところがその後、“フジョシ”と発言した先輩が私の近くの席に来てくださり、「君フジョシだろ?フジョシって、腐った女子と書いて腐女子な」と解説してくれたのです。
そこでやっと私は“腐女子”という表記を知りました。
ちなみにその先輩は今で言うところの腐男子(当時はまだ腐男子という言葉はありませんでした)。
大いに盛り上がったのは言うまでもありません。
そんな風に“腐女子”という言葉と出会った私。
ですが、大学時代、私がその言葉を自ら使う事はありませんでした。
世の中でも、“腐女子”という言葉の認知度は今よりはるかに低かった頃です。
私もその言葉と出会いつつも、定義的なものは正直あまりよく理解していませんでした。
大学卒業の辺りから社会人になり、結婚し子供が産まれるまで、私は脱オタク期に入ります。
これは私の人生の中で、自分がオタクだった事を忘れて過ごしていた唯一の期間です。笑
結局、HUNTER×HUNTERの映画を見てしまったのをきっかけにドドドドーっと、オタクな自分がいっきに甦ってしまい、今に至ります。
しかも、大人になりきってしまった為か……かつて学生時代には多少あった恥じらいがなくり、大幅にパワーアップしたオタクになってしまった、そんな感覚です。
私は学生の頃からコミケのスタッフまでやっていた程、同人誌大好き人間ではありました。
そしてもちろん、二次創作の世界に浸り妄想するのも大好きでした。
ですが、当時の私は同人誌爆買い&ちょっとだけコスやる、くらいまでが限度。
初めて自分でも二次創作の小説を書いてたのは脱オタク期を経て戻ってきてからなのです。
自分の妄想を絵には出来なかったけれど文書化する作業。
とても楽しくてハマります。
ドキドキしながらもR18を書き、もっともっと楽しくなってしまいました。
話が私のオタク歴になってしまっていますが、まさに一度脱オタクを経て戻ったこの時。
腐女子という言葉が世の中で一般的になっていたのを知りました。
脱オタ期間がありましたから。
戻ってすぐは浦島太郎なオタクだった私。
かつてはスルーしていた単語が、まさに自分を表現するには欠かせない言葉だったと知ったのでした。
そしてブログを始めるにあたってタイトルを考えた際、自分を端的に表す言葉、腐女子を入れよう!でももう“女子”と表現するのは痛いな……腐母にしておくか!と、このブログのタイトルになったのでした。
腐女子という言葉。
大学生の時には深くは考えず、脱オタクを経て戻ってからはまさに自分という認識に至り……
今、やはりまさに自分の事だという認識こそ変わりませんが、言葉に少し違和感を感じてきています。
その違和感とは、何故“腐った”女子という表現になってしまうのか?という事です。
“腐”という漢字にあまり良いイメージはありません。
試しに漢字辞典を見てみると、くさる、くちる、古くて役にたたない、心をいためる、肉が傷む等、やはり良い意味はありません。
なぜそんなマイナスイメージの言葉になってしまったのだろう。
腐女子という言葉そのものを考え始めた私は、ウィキペディアで『腐女子』という言葉を調べました。
ちなみにみなさんはウィキペディアの腐女子のページ、読んだ事はございますでしょうか?
一通り目を通しましたが、なかなか読みごたえがありますし、かなり細かく論じられていて面白くもあります。
小難しく感じる程に色々な事が書かれていますし、時に「そうか?」と引っかかるような部分もないわけではありません。
そんな中で私としては一番ストンと腑に落ちたのは、言葉の始まりの部分でした。
『もともとはホモセクシャルな要素を含まない作品の男性(的)キャラクターを同性愛的視点で捉えてしまう自らの思考や発想を、自嘲的に「腐っているから」と称したことから生まれたといわれる。使われ始めた当時はへりくだったニュアンスとして、自身の特殊な趣向に対する防衛線の役割を果たしていた』と書かれていたのです。
またこれは『社会学者の上野千鶴子によれば、自らのことを腐女子と表現する背景には、相手から「腐ったような女子」といわれる前に自分からそれを表明して侮蔑を回避するという「居直りのレトリック」がある』という説明もなされており、私は自分が腐女子と名乗る時の心理はまさにこれだろうと感じました。
そして、自分の心理に納得した私ですが、時を経る毎に考え始めた事は、そんなに防衛戦を貼ってしまって良いのか、そんなにへりくだって良いのかという事です。
これは胸にひっかかっているわだかまりのようなもので、上手く表現出来ないのですが。
7周年という事で、探り探り文章にさせてもらいます。
私は考えました。
男性同士の恋愛を描いた物が好きという事。
それ自体が別に悪い事ではないのだから、男性同士の恋愛が好きな私が“腐っている”とへりくだることが、本当の同性愛者を傷つける事に繋がりはしないか。
自分では二次と三次元を混同しているつもりはないのですが、私のような存在が性的マイノリティの方々の足を引っ張っているのではないか、心配になりました。
そもそも同性間の愛と異性間の愛に差なんてないはず。
異性間の愛を描いたラブストーリー。
例えば不倫や略奪愛。
そうゆうものが好きな人は“ちょっと過激なラブストーリーが好み”なんて表現されるのに。
同性間のラブストーリーが好きな人は“腐女子”と表現され、ウィキペディアにあったように、研究対象でもあるかのように論じられている。
よくよく考えると違和感を覚えます。
私の好きな同性間のラブストーリーだって、普通のラブストーリーなのだから。
普通のラブストーリーに何故“腐”を使うのか。
この言葉を使い続けるのはよくないのではないかという考えが生まれました。
ただ現状、これ以上に自分の趣味思考を端的に表現出来る言葉がないので、結局は使ってしまっていますが。
自分の中で少し葛藤が生じるようになったのです。
そんなやんわり抱き始めていた気持ちがさらに複雑化したのは、ある時に二冊の本を読んでからです。
二冊とも同じ出版社から、近い時期に発売された本で、『ふたりぱぱ』と『夢をあきらめないで 68歳で性別適合手術』という書籍です。
出版社ホームページ(現代書館http://www.gendaishokan.co.jp/index.htm )より、書籍の紹介文を引用させてもらいます。
『ふたりぱぱ』
スウェーデン人男性と同性婚をしたみっつんの人気ブログ『ふたりぱぱ』の連載「サロガシーの旅」の書籍化。ゲイが子どもを持ちたい時、ゲイが子どもを授かる方法、サロガシー(代理母出産)のプロセスなど、ゲイカップルが子どもを授かるまでの“旅”をリアルに語るエッセイ。みっつんのまっすぐで慎重な言葉が、「母性、父性ってなんだろう?」「子どもを持ちたい気持ちに性別や家族のかたちは関係ない」、そんな気持ちにさせてくれる。
『夢をあきらめないで 68歳で性別適合手術』
著者は現在70歳の経済学者。幼少期から男性としての自分の体に違和感があった。性的少数者への理解が広がる中、行動を開始したが、まもなく双極性障害を発症し、長いうつ状態に陥る。病気を克服し、定年後に性別適合手術を受ける。少年時代、心は女性でありながら、「男になりたい(男の心情を持ちたい)と思っていた」という。「女になりたい」ではなく、「男になりたい」であったところに社会からの圧力が垣間見える。本書では、うつ状態が大半を占めた約10年に及ぶ苦しみから抜け出し、自らの生き方に確信を持つに至るまでの日々が綴られている。
二冊を続けて読んだ時の感想は様々なものがありましたので、また改めてお話させて頂きたいと思っています。
というわけで、今回は深くは書きませんが、読んだ当時から今に至るまで、ずっと心の中に引っかかっているものについてだけ書かせて頂きます。
世の中の差別意識について。
『夢をあきらめないで』の著者、三土明笑さんの方が年齢が上な事もあり、差別意識がまだまだ強い中を苦しみながら生きてきた印象でした。
対する『ふたりぱぱの』の著者、みっつんさんの方は現代的。
もちろん苦境もありますが、明るく綴ってらっしゃいますます。
そもそもこの二冊、内容も違うので比較するのは相応しくないのですが、続けて読んでいると、三土明笑さんの時代からみっつんさんの時代へ、ジェンダーの問題を世間がどう受け止めているかの変容を感じました。
近年、ジェンダー問題の意識が一般的に高まり、差別的な感覚はきっと昔よりずっと少なくなったのでしょう。
学生の制服ひとつとっても、男の子でもスカートを、女の子でもズボンを選べるようになったという学校の事をニュースで見て、素晴らしいなと思いました。
それでも、日本はまだまだ後発国だとも感じます。
女性ならこうあるべき。
男性ならこうあるべき。
そうゆう感覚が小さな頃から擦り込まれていると思います。
男の子らしさ、女の子らしさ。
染み付いた概念を小さな頃から取っ払っていかなくては変われない。
そう思いました。
けれど、そんな風に考える私自身が、ほぼ無意識で、子供達に女の子らしさを語り、求めてしまっている現実にも気づきました。
それは日常の些細なところにたくさんあります。
娘達に粗暴な言動があると、「やめなさい、女の子でしょ」なんて口に出してしまう。
言い訳ですが、自分が子供の頃、母に言われた言い回しをしてしまっているのです。
粗暴の悪さを正す時に、そこに女の子だから、男の子だからという言葉は全く必要はいのに、つい口を割って出てしまうのでした。
また、娘の友達の男の子に、ディズニープリンセスの大好きな子がいるのですが。
初めて娘にその話を聞いた時、つい「男の子なのに珍しいね」なんてコメントをしてしまってから、はっとした事もあります。
“男らしい”“女らしい”等、そうゆう概念が悪いと否定するつもりでもないのですが。
ただ、例えばディズニープリンスの好きな男の子に対してコメントする際、まずその子の性別から入ってしまう、そんな見方を変えたいと思っていたはずなのに、出来ていなかった自分に気付いたのでした。
「じゃあ、一緒にプリンスごっこして遊べて楽しいね」「キラキラ可愛いのはママも好きだよ」「○○君は特に誰が一番好きなの?」等々、コメントはいくらでも出来るはずなのに。
私が第一声で「男の子なのに珍しい」なんて言ってしまうとは……。
今や男の子だってプリキュアになれる時代。
私の中にある無意識で作り上げてしまっている性別の壁をもっと崩していきたいです。
ところが、そんな気持ちを抱いたと同時に苦しむ事になるのが、創作世界においてのジェンダーの表現です。
私にとって自分を語る上でもはや欠かせない要素となっている二次創作の分野。
そこでの性別は最も重要なキャラの要素の1つであり、そこには、同じ趣味を持つ者同士の共通した固定概念の様なものが存在していると感じます。
恋愛においてこそ、同性愛がもりもり描かれる二次創作の分野ですが。
そこにも絶対的な男らしさというものが確かに決まっていて、それは暗黙の基準になっている気がするのです。
もちろん、全ての作品においてではありません。
ですが、攻めは男役となるだけにたくましいイメージが伴われがちですし、受けキャラが女性の様な扱いを受けやすくなっています。
それを逆手にとったように“男らしい受け”とか“女々しい攻め”なんて言葉も使われたり。
そうゆう共通概念が存在するからこそ映えるギャグがあり、それがまたとても面白かったりするのです。
同性愛も異性愛と変わらず尊重したいと考えますし、LGBTQの方々を支持したい。
強くそう思っている反面、私は自分の趣味の部分が足枷、負い目になっています。
私が好んでいる趣味の分野、作品。
それらは本当の同性愛の方が見たらどう感じるのでしょうか。
きっと、不快に感じる人、不快ではない人、そもそも二次創作を気にも留めない人、逆にそれらが大好きな人、様々な方がいらっしゃって、受け止め方も本当に色々あるのだろうと思います。
どんな受け止められ方をされるにしても、ひとつ言っておきたいのは、つくり手側にはキャラや作品への愛こそあれど悪意はないという事。
それだけは分かって欲しいなと思ってしまいます。
そもそも二次創作というものは、正直、著作権法との兼ね合いでもギリギリな分野。
というか、むしろギリギリアウトな分野でしょう。
日本は世界的に見ても独自の発展を遂げ、若手育成の場でもある等の趣旨で、大目にみてもらっている部分があって成り立っている分野です。
ですから私は、別に公共の場で主張されるものでもない、どちらかと言えば共通の趣味の人が自ら求めて辿り着く分野だと思っています。
最近“マナーの悪い腐女子”(例えば実在するアイドルにもその手の言葉を投げかけてしまう等)なんて話を聞くと複雑な気持ちになりますが、大半は節度を持って楽しんでいる人ばかりです。
私にとっての二次創作は、あくまで趣味の範囲で行っている活動で、それは私の欠かせない要素。
そしてLGBTQの方々を応援したいこの気持ち。
それも嘘偽りない真面目な気持ち。
決して二次元と三次元を混同しているわけではなく、同時に存在しているのだと言いたいのです。
今まで私は、自分が真面目に主張しても、趣味を混同しているように思われるのではないかという不安がどこかにありました。
今もそれはあります。
そして趣味と気持ちを両立しながら語る上で、やはり腐女子という言葉の抱えるマイナスな意味が胸にひっかかります。
デリケートな問題をいくつも抱えるこの葛藤はこの先も続くことでしょう。
ですが、そうゆう心の中に芽生えた違和感を時々立ち止まって考えてみる。
答えは見つからないし、それどころか、途中から何が言いたかったのかもよく分からなくなってくるこのまとまらない感覚。
ただ、それを感じるだけでも、何も考えないよりはきっと良い。
違和感を感じる瞬間が増えれば増える程、何かまた新しいものが見えてくる。
そう思っています。
自分で言うのもなんですが、好きなキャラ同士がイチャイチャ仲良くしてくれている事こそ最高の幸せだと感じるバリバリ腐女子な私。
そんな私は、早く日本も同性婚が認められるようになって欲しいと思っている人の一人です。
もちろん認められれば、私の愛するキャラ達が幸せになれるという気持ちもあります(最終的には次元を混同させませんので、ここはあえていつも通りの言い回しをさせてください!)。
ですが、それ以上に、真面目に考えています。
認められない現状に悲しい思いをしている人達の事を。
日本は本当に弱者に冷たい国になってきていますが、信じて願いたいです。
もっと多くの人がより幸せに暮らせる国になりますように。